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南十字星に口紅を
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飲茶道場ー名参謀篇
明治維新により近代日本が誕生してから
名参謀と呼ばれる逸材を数々輩出してきたが
ただ一人選ぶとすれば秋山真之中将と答えても
異議を唱える人は少ないであろう。


松山城下の愛媛県松山市に生まれ、士族の家庭で、
地元の漢学塾に学び、和歌なども習う。
親友の正岡子規の上京に刺激され、大学予備門現在の
東京大学教養学部に入学する。
東京帝国大学進学を目指すが、経済的苦境から真之は
兄の陸軍士官の秋山好古に学費を頼っていたために、
卒業後は文学を断念して、明治19年(1886年)に
海軍兵学校に17期生として進学する。
海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。
卒業後は少尉候補生として海防艦など
に乗艦して実地演習を重ね、座礁したトルコ軍艦の
生存者の救出、帰国にも従事する。
この時の恩義によりトルコは現在でも親日な国といわれている。
実際にコロたんもトルコに行ったけれど親日国である。



朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し、
ついに戦争へと突入していった。かの、日露戦争である。
日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀となり、
第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。
ロシア旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅のための旅順港封鎖作戦で
先任参謀を務めた。

ロシア国内においてはレーニン率いるボルシェビキの革命の危機と
明石大佐の諜報、諜略作戦が功をそうしロシアは瀕死の状態におちいる。
中国旅順では乃木希典大将率いる日本帝国陸軍とステッセル将軍の率いる
ロシア陸軍が203高地において死闘を演じている。
日本帝国海軍が要請した旅順港攻撃の要の203高地がなかなか落ちない。
セメントで固めた要塞にロシア軍が立てこもり
日本帝国陸軍の攻撃にもびくともしない。
ロシアはこれに目をつけ戦局挽回と国威発揚のため起死回生の奇策にでた。
強力な軍艦を旅順港に差し向けた。
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊を向かわせた。

戦略的要地203高地

バルチック艦隊の壮大なる大遠征がはじまった。
日本軍はこれを察知して何重もの索敵を開始する。
日英同盟を発動して英国もロシア艦隊の行く手を阻むために
あのてこのてのいじわるをする。してくれる。
バルチック艦隊も何度か断念しなければならない事態になるが、
本国の奮闘努力せよ、帰還まかりならん。
この命令により苦しい遠征をつづける。

バルチック艦隊殲滅作戦を一身に引き受けた秋山真之は
夜も寝ず天井の一点をみつめたまま死に物狂いで作戦の考案をする。
バルチック艦隊は戦さをせずとも良い。ただ旅順港に逃げ込めば良い。
日本帝国海軍は旅順港に逃げ込められたら旅順港から打って出られては
大陸への輸送が止められ帝国陸軍が孤立して敗北する。
一隻たりとも逃げ込められてはならない。
非常に困難な作戦である。そして作戦を立案した。
かの有名な敵前大回頭である。
非常に難しい困難な危険な作戦である。
これしか方法はない。と確信した秋山真之中佐は
連合艦隊司令長官東郷平八郎に提出した。
数多くの反対があったが連合艦隊司令長官東郷平八郎は熟慮のうえ
これを採用した。これで大日本帝国の運命は決まった。


ついにバルチック艦隊は日本近海に到着した。
敵ながらあっぱれ。苦しい航海をやりとげ、
目的の完遂の一歩手前までやってきた。

バルチック艦隊は遠回りをせず日本海対馬に入り
一気に旅順港に逃げ込む作戦をとると確信した連合艦隊は
警戒網をしぼりこみ神経を研ぎ澄まし索敵を行った。
ついに無限の広さを持ったような海洋で
針の穴のような存在のバルチック艦隊を探し当てた。
知恵と知力の戦いが。勇気と勇気の衝突がまさに始まる。
無機物の鉄の塊の軍艦が有機体となり一身となって昇華して行く。
何もかも超えた火力、総合力をも超えた、神にも判りかねる
意思としての有機体がそこにただ存在するだけである。

Z旗上がる。
ここに世紀の大海戦の幕が切って落とされた。


本日天気晴朗ナレドモ浪高シ

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ


秋山真之の作である。



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